昭和五十七年六月三十日 朝の御理解


御理解 第九十節
 「上から下へ水を流すのは容易いが下から上へ流すのはむつかし  い道を開くと云うても匹夫の俗人から開くのぢゃからものがむ  つかしぅて暇が要る神のおかげで開かせて貰ふのぞたとえ一時  はむつかしい事があっても辛抱して行く間には徳が受けられる」

今日の祈願祭の事をお願い申しておりましたら“大きな船にいっぱいの人が乗っております。それを、こ、碇を上げて折るところを” 頂きましたが。例えば、千人乗りの船と、ま、いたしましょうか、千人しか乗れない船だといたしましょうか、それに、千百も千二百も乗ったら、それこそ船もろとも、といったような事になります。それでは結局、こぼれる者があります、ね。どうでも、やはり千人から、ま、例えば二千人も乗れるような大きなおかげを頂きたいならば、やはり、船そのものが二千人乗りの大きな船にならなければ出来ません。私は合楽で、成行を尊重する、いわゆる尊んだ行き方という事は、ま、こんなに間違いのない素晴らしいおかげはない、と思うんです。
受け物もないのに、も、それこそ地団駄踏むようにして、お願いをしておかげを受けるというのではなくて、次第におかげの受け物が立派なものに、受け物が大きく育っていく、ね。それは、自然の働き、というか、それを尊重する行き方、又は尊重する生き方。いかにも、そこんところが、こうすんなりのようですけれども、やはりなかなか有難く、または尊重して頂けないような事もあるのですから、ね。いうなら、むつかしい事もあるのですから。その、むつかしい事を、いよいよ、これによっておかげの受け物が大きくなるんだ。いわゆる、信心の本当の確立が出来るんだ、という事がわかってまいりますと、その、むつかしい事にも、しっかり御礼を申し上げていく事になります。
そういう生き方が、ね、ま、いうならば、なかなか上から下へ水を流すようなわけにはいかん。下から上へ水を流すようにむつかしいとおっしゃるのは、そういう事ぢゃないでしょうか、ね。一遍にという事ぢゃないけども、合楽教会の場合でも、一年歳々、いうならば、ま、わずかずつではあるけれども繁昌の一途をたどっておるという事。
去年の大祓式の時には千三百位やったと思いますね。千三百台位な車のお祓いをさせて頂いてる。今年は、もう、ちょっとで二千台の車の、車だけでもお祓いをさせていただいた、ね。だから、去年は千三百人位の船であったのが、今年は二千人乗りの船になっておったという事になりますね。それで、なら、今年の大祓式には、今度は二千五百人位乗れる車・・・船が出来ておらなければいけないという事になります。
そこで、とても、合楽でお祓いを受けておけば、本当に、一年無事故で、ま、車なら車のおかげを頂いた。無病息災でおかげをいただいた。悪疫予防のおかげを頂いたと、交通安全のおかげを頂いたから、また、合楽では頂けるからと云うて、ね、これを、ならば、鳴り物入りで宣伝したら、どういう事になるでしょう。ま、ね、これはなら、私が宣伝したらどういう事になるでしょう。ほう、そんならいっちょ。それこそ、車を持たない物はおらん位沢山ありますから、もっともっと沢山な車のお祓いを受ける人達が出来ると思います。けれども、そういう事ではなくて、自然にそういう働きがおこってくる。私を中心にしてそういう働きが起こってきて、千三百台が二千台、二千台が二千五百台というように、自然に、それこそ、こちらの信心のすすんだというか、大きな船になっていくに従って神様はこれいっぱいの、いうなら、ものを集めてくださるんだという事です。
だから、成程、合楽のおかげが確かだな、という意味がわかりますね。私の、いうならば、持てる力以外のものが、なら、集まったところで、ですから、も、本当に、合楽にフシギな縁を受けて、今日こうしておかげを受けておられる方達の場合なんかはです、も、本当に、も、その辺の、ま、神様のフシギな御縁というか働きを、いよいよ尊重しなければならん。私は、その船に乗れるだけの御縁を頂いているんだ、と。さあしっかり、その、ま、合楽の祈願祭におかげを頂く人達が、無病息災、無事故のおかげが頂かれると言うて宣伝すれば、もっともっと沢山の人がお願いにくるでしょうけれども、なら、こちらが二千人乗りの船に、しかないのに、これが三千人も集まったりすると、千人はこぼれなければならない事になります。かと云うて、なら、御信者の皆さんの中に、ね、本当におかげを受ける、もう、こういう示現活動に参画させてもらって、ね、一台でも多くの車のお祓いを受けられるように願うという人が、なら皆さんの中にあって、そういう働きが自然におこってくる事によって、ま、合楽の、いうなら、力というか、おかげとが丁度つり合ってくるわけです、ね。ただ、自分方の車だけ、と、言う人もありましょ、隣の人のつもしてあげる、という人もありましょ。自然にそういう働き、例えば、林さんやなんかの場合は、自分の村中を回られた、という事です、ね。本当におかげを頂かしてもらう。村中に一軒一軒回って、大変、ま、喜ばれた、と、いうお届けが昨日ございましたが、ね。なら、そういう人も、鳴りもの入りで、私が宣伝したから、そうなったという事であっては、いうならば、ね、小さい船に沢山の者が乗れば危ないのです、ね。だから、自分がその中の一人として、どういう働きを現せるか、と、いう事だと思うです。合楽で信心の稽古をさして頂いておる者が、です、ね、なら、祈念祭なら祈念祭に何名の、いうならば、お導きが出来るか、そういう働きは、合楽の信心を受けておる者として、当然そういう働きがおこってくる、ね。そこに、なら、お願いします、お願いしますという人達の分も、なら、今日の祈願の中に入る事ができる。だから、これは、不自然であってはいけない、いうならば、鳴り物入りで、いうなら、集めたのであってはいけない。例えば、これは、も、全然違いますけれども、○○神社とか、ね、○○不動尊とか、と、いったようなものが、もう、それこそ、ま、悪疫予防的な、まあ、自動車の交通安全の事を、も、それこそ、鳴り物入りで宣伝してあります、ね。だから、やっぱり、沢山な人が集まるかも知れませんけれども、果たして、合楽での祈願祭におかげ頂いた方達のような、も、確実なおかげにはつながらない。いうならば、客寄せ的なものであってはならない。
結局、合楽理念の力である。合楽の力が、ね、二千人持てる力、三千人持てる力があった時に、神様は、三千人の信者なら信者、車なら車を集めて下さるのですから、その集められた私共一人一人が、ね、そういう、いうならば、御恩恵にいよいよ浴しておるという事を、いよいよわからせて頂いて、ね、確かなおかげを頂ける信心をいよいよ進めていかなければならん、と同時に、ね、いうならば、欲しいのは力である。皆さんもそうです、一遍に大きなおかげを頂きたいというなら、どうしても大きうならせてもらう、ね。信心修行を先にしなければならない。その、大きな受けものを作る事の為に、御理念は、も、実に、ねんごろに説かれてある。いよいよ、土の心で、いよいよ、成行を大切にする、尊ぶ、と、いったような行きかた。
受けられんような事もあるけれども、それを受けていく事によってなら、心が豊かに大きうなる。大きうなっただけのおかげである。ね。信心も、やっぱり日進月歩である、ね。去年よりも今年、と、どれだけ自分が力を頂いたか、大きな受けものを頂いたか。
頂かんはずだ、ひとつも大きうなってないんだもの。ひとつも成行を、その、知ってはおるけれども尊重しよらん。黙って治める、と云うても、ね、それが、いよいよ、心の豊かになる、根ごやしにもなろうというものを、向こうの方へ押しやってしまってるんだもの。これでは、いつまでたっても、いうならば、おかげにならん、ね。辛抱して行く間には、徳が受けられる、と、今日の御理解にありますように、辛抱して行く間に、と、いうのは、一年一年、いうならね、段々おかげへ近づいて行く事の為の修行である、ね。
今日、私が御心眼に頂いた大きな船にいっぱいの人が、今日のお祭にあう事ができるでしょう、ね。だから、と云うて、これを、なら倍にもして、と、云う事になりましょうかね。これは、例えば、教会としてですよね、沢山、なら、西鉄さんのような、大きな自動車会社にですよ、宣伝してから、お宅の車をお祓いしてあげるとこうですよ、と云うて、なら、例えば、集まったところでです、やっぱおかげ頂かなければいけませんからね。それではいけない事がわかる。も、本当に、こちらの信心の、いうならば、心の広がりというか、ね、心の深まりというか、いよいよ自分の信心が、一段と大きくなっていく為の修行を、日頃しっかりしとかなければならない。合楽教会で、いうならば、去年までは、今年、いっぱい、いうならば、二千台の、しか乗せられない船であったけれども、今年はどういう事になるか、今度のお祭りにはどういう事になるかは、ま、これは、じぶんの信心を試してみる上においても楽しい事である、ね。皆さんの信心も、やはり自分のおかげの世界と、自分の信心の世界というものが、こう足ろうていくおかげを頂かなきゃならん。そういうところがです、一遍にというわけにはいかん。それこそ、上から下へ水を流すようにむつかしい、と云われるように、次第に、それを、ね、広げていく、ね、いくうちに力が受けられる。いわゆる辛抱していくうちにお徳が受けられる、と、おっしゃる、そのお徳につり合うたおかげですから、それ以上の物を望んでも、おし頂いても、それをまた、もらしてしまわなければならん。千斤持てる人に千五百斤のおかげをやっても、五百斤はどこにか置いていかなければ持てんのです、ね。千五百斤のものが持てる為には千五百斤の持てる力を、まず頂かなきゃならん、という事になります。
今日、お祓いを受ける。祈願祭に参加出来る人達を乗せた船が、今日、その碇を上げて、また、一年後の大祈願祭へ向かって進んでいく事でしょう、ね。
これから、こぼれ落ちる事のないようなおかげを、私としては頂いてもらいたい。為には、お互いがそういうフシギな働きの中にあって、自分がこの船に乗らせて頂いているんだ。
昨日は、敬親会で、まあ本当に、こんな教会はないと思うですね。もう、八十~九十ぐらいのお年寄りの方が沢山集まって、毎月、こうして、研修をするという。しかも、その一人一人が、もう見事な発表をなさいます。本当に一年一年、年を取るにしたがって位がつくとか、有難うなるとか、と、教祖はおっしゃるが、確かに有難うなっておられる人達の御信心を、昨日、聞かせて頂いたんですけれども、ね、皆が、ま、異口同音に云っておられる事は、も、合楽に御神縁を頂いた、と、いう事のフシギさ有難さを語っておられますね。合楽には、兎に角、なら、二千人なら二千台の車を、こ、支える力しかないのですから、その中に入っておる自分という者を、ね。やはり、もっともっと尊重するというか、有難く頂かせてもらうおかげを頂かなければ、勿体ないというふうに思います。
今日の大祓式には、そういう意味と内容をもって御参拝のおかげを頂きたいと思います、ね。                                       「 どうぞ 」